思うこと
曾じいちゃんが死んだときの話だ。
自分の記憶の中では泣いてなかったけど、親達の話では俺は大泣きしたらしい。
正直に言おう。
全然覚えてない。
覚えているのは肉が食べられなかったことと火葬場の嫌な臭いだけだ。
このことを言うと薄情な奴だと思うだろう。
俺も実際そう思う。
でもそのとき俺は確かに『絶対泣かない』と決めたのだ。
当時は小学生だったからテレビかなにかの影響でそう思ったのだろう。
それで精一杯カッコつけてたんだと思う。
ホント、それでイッパイイッパイだったんだと。
でもそれからはずっと、悲しくて涙を流すことは弱いことだと思っていた――
近所というにはいささか距離があったが小学生でも十分歩いて行ける距離に父方の祖父母の家はあった。
昔から土曜日の夜は姉と一緒にそこに泊まるのが習慣だった。
父の兄弟は男だけだったとのことだったので姉が産まれた時は父方の祖父母はそりゃ喜んだそうだ。
もちろん、俺が産まれた時も喜んだだろうけど。
孫は子よりも可愛いというが、ウチの場合もそうだったのだろう。
実際、じいちゃんばあちゃんには可愛がってもらった覚えもある。
でも同時に、記憶には全くないのだが、俺はそそっかしい奴だったらしくすぐに怒られていた。親にもじいちゃん達にも怒られた記憶はたっぷりとある。
本音を言わせて貰えば男の子なんて騒がしすぎるぐらいでちょうど良いと思う。
それはともかくそんな俺だって時間が経てば成長して自然に中学生高校生になる。
中学に上がるときに親父が仕事で東京に行くことになったのだが、家族全員が反対して親父一人の単身赴任ということになった。
いま思えば家族三人が即答で反対するものどうかと。
とにかく親父が不在になるおかげで家を持て余すことになりそうだったから、しょうがなく俺と姉と母の三人は父方の祖父母の家で暮らすことになった。
その間家は中学の理科教師に貸していたなんてどうでもいい事実もあったりするが、本当にどうでもいいので割愛。
そんなこんなで特に問題なく中学を卒業し、2年だったはずの赴任が3年に延びた親父も帰ってきて大人しくウチの家族も自分達の家に帰ることになった。
その頃からだろう。
じいちゃんが入院し始めたのは。
じいちゃん(父方の)は定年を過ぎても働いていて俺から見ても不思議なぐらい元気な人だった。
でもそれも変わっていく。いや変わっていった。
詳しいことはよく分からないがじいちゃんは肝臓が悪く、C型肝炎だったらしい。
辞書、しかも国語辞書で調べてみるとC型肝炎のウイルスは血液を介して感染し最終的には癌に進むことが多いらしい、ということが分かった。
何の感慨もなかった。
ただ知識が一つ増えたという程度の感覚だった。
随分と冷めてるだなって、自分でも思った。
入院してもすぐに退院し、体力こそなくなったものの頭の回転も今まで通りのじいちゃんがいた。
でも少しだけ、痩せているのが分かった。
俺は特に気にすることなくずっと普段どおりの生活を送っていた。
その間もじいちゃんは入退院を繰り返していた。
稀に自分から足を運ぶことはなくても親に無理やり見舞いに連れて行かれた。
やっぱりじいちゃんはいつも通りだった。
学校のこととかを訊かれたけど、そういうのをあまり話したがらない俺は適当に返事をした。
最低限のことしか答えなかった。
――学校はどうか?
――別に、普通。ちゃんとやっとるって。
携帯電話を買ってくれたのもじいちゃんだった。
その携帯電話を買った日より少し前の6月9日が俺の誕生日だ。
ちょうどクリスマスと半年周期でやってくるから、プレゼントを貰うにはもっともいい時期に産まれたものだと思っていた。
その半年後の12月9日。
その2日前の7日土曜日に俺は親に連れられて見舞いに行っていた。
病院のベッドの上で久々に会ったじいちゃんは昔の元気な頃とは全然違っていた。
歳のせいで耳が遠いというのは割かし昔からあった。
でも、呆けてはいなかった。
なのにその日にあったじいちゃんは何度も同じことを訊いてきた。
そんなじいちゃんを見て俺はただ、メンドクサイとだけ思った。
後で細かくお見舞いに行っていた母の話を聞くと、俺と話しているときのじいちゃんが一番元気だったそうだ。
その頃既に姉は留学していたからすぐに見舞いに来れる孫は、俺しかいなかった。
その日の帰りの車の中でじいちゃんがもう長くないという話を聞いた俺は、明日は見舞いに行かない、と言った。
当然のように母は俺に見舞いに行くように言ったが、俺はそれを拒否しとうとう行かなかった。
見舞いから帰ってきた母はじいちゃんが、俺は来たのか俺は来たのかと何度も尋ねていたことを聞いた。
母は涙ぐんでいたけれど、聞き流した。
もう決めてあったからだ。
俺は、俺らしく俺の道を歩く。
明日学校が終わったら病院に行くことを。
でも、何となく分かっていた。
――もう会えないなって。
予感は的中した。
ご都合主義と思われるかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。
12月9日月曜日。
ちょうど俺の誕生日から半年後。
この日の早朝にじいちゃんは死んだ。
実にあっけないものだな、と思った。
思う他なかった。
病院が学校の近くにあったこともあって、そのまま学校に行った俺は担任に明日は忌引きで休むことを伝えた。
担任は分かったとだけ言ったが、その目には色んな色が混じっていた。
でもそんなことに興味はなかった。
授業はいつも聞いてなかったから、いつも通り聞き流すだけでよかった。
周りのみんなは気付くかなって思ったけど、誰も気付かなかった。
ただ一人、何かあったのか?と訊いてきたから、何もないとだけ答えておいた。
月曜日は塾がある日で学校が終わるとすぐに向かうのだが、その日は友達と一緒にゆっくり道を歩いた。
携帯電話を取り出して今日は休むかもと言うとなんで?と返された。
そこで俺は初めて、じいちゃんが死んだ、と口にした。
――なんでそんなに普通なん?
――そう?別に取り乱すことでもないやろ。
自分でも驚くぐらい冷たくて落ち着いた声が、喉の奥から聞こえてくるのが分かった。
その日は結局塾は休んだ。
家に帰ると姉ちゃんに伝えなさい、と言われたから電話でじいちゃんが死んだと二度目の言葉を吐いた。
うそ?という言葉とその後の沈黙で泣きそうなのを我慢しているのが分かって、受話器の向こうで、言葉で言われただけでも泣けるのが不思議なくらいだった。
何で泣くんだよという気持ちと、羨ましいという気持ちとがごちゃ混ぜになっていた。
次の日になって遠くに住んでいた従姉弟達もやって来て泣いていた。
通夜も行われた。
そんな中で従弟に、泣かんのやね、と言われた。
ひどく響いた。
泣くのは弱いことだと思って、悲しくて泣くことは絶対にしないって決めていた。
そして、一度泣いた後はもういいのかと、通夜の夜を遊んで過ごす従姉弟達に心の中で投げかけた。
次の日の葬式はじっとしていたり、お辞儀をするだけでよかったから楽だった。
親父の挨拶は涙ぐんだ声だった。
火葬場と移ってからは歩き回った。
火葬場の臭いと雰囲気が嫌だった。
幾らか時間が経って出てきた骨は、人だったものとは思えないぐらい小さかった。
初七日の日。
ひどく騒がしいお経が終わるのまでの時間を必死に耐えた。
その後の坊さんの死者が夢に出てくるという話を聞いてばあちゃんはちっとも出てきやせんと不満げに言ってみせていた。
周りの皆も同じようだった。
俺は一人で、じいちゃんが俺がきたか俺が来たかと尋ねていたことを思い出していた。
悲しくて涙を流すことは弱いことだと思っていた。
だから俺は絶対泣かないと決めていた。
何の影響だろうと俺がそう決めたのだ。
絶対泣かないって決めた。
でも本当は、泣いた。
従弟には泣かないと言われたけど、俺はもう泣いていた。
12月9日。
俺がニュータイプであると言い出せば、恐らく何を言っているんだろうと疑るだろう。
当然だ。
良く冗談交じりでそんなことを言うけれど実際に先のイメージの掴める人間なんてそうはいない。
でも、そのときは分かった。
ご都合主義やその他のものだと思いたければ思えばいい。
早朝、4時ぐらいだっただろうか。
目を覚ました。
電話が鳴る前に。
目を覚ましてから数秒あるいは数十秒してから電話が鳴った。
その音を聞いて俺は確信した。
母親の廊下を走る音が聞こえてじいちゃんの容態が急変したことを知らされる。
急いで準備をして、病院へ行った。
5階の廊下を歩いているところで1人の医師とすれ違った。
――ああ、間に合わなかったか。
また、確信した。
病室に入ってばあちゃんが臨終を伝えて、親父が泣いた。
大声で親父と泣いたのが聞こえた。
見なくても母が泣いているのが分かった。
俺は――泣かないつもりだった。
こみ上げてくるものはあったけれど、我慢できないほどじゃなかった。
でも母さんに言われるままにじいちゃんの手を取ったとき、それが引き金になった。
よく、暖かさが失われていくとか冷たくなっていく体とかいう表現が使われているけれど、そんなものじゃなかった。
暖かさと冷たさが同時に存在する感触。
表面は冷たいのに、冷たくなったのに身体の奥はまだ温かくて生きていたことを証明している。
そんな感覚。
温かいのが何よりも冷たい。
堪えることなんて出来はしなかった。
悲しいとかそんなことじゃなく。
人が死ぬという感触を初めて理解した。
感情とか言葉とか、そんなものどこにもなくなって、こみ上げてくるものとかそんなのもなくて、ただ――涙が流れた。
悲しくて涙を流すことは弱いことだと思っていた。
だから俺は絶対泣かないと決めていた。
何の影響だろうと俺がそう決めたのだ。
俺がじいちゃんから貰った一番のものは、自分のやりたいように自分の決めたことをするという、考え方だった。
初七日の日。
その後の坊さんの死者が夢に出てくるという話を聞いてばあちゃんはちっとも出てきやせんと不満げに言ってみせていた。
周りの皆も同じようだった。
俺は一人で、じいちゃんが俺がきたか俺が来たかと尋ねていたことを思い出していた。
どうしてそんなに俺のことばかり気にするのか。
姉ちゃんだって従姉弟だっているのに。
親父やその弟だっている。
なのになんで俺なんだ。
俺が孫の中で一番年上の男だからか?
俺が近くに住んでよく来てたからか?
なんで、なんで俺なんだ。
いっぱい怒られるようなことして、いっぱい怒られて。
いっぱい甘えて、なのに全然孝行しなくて。
見舞いにだってろくに行きはしなかったのに。
なんで俺なんだ。
なんで……なんで俺の夢なんかに出てくるんだよ。
俺は言った。
――夢なら、見たよ。
皆はどんなことを言っていたのかを訊いてきた。
――自分の……自分のやりたい事をせんにゃいけんぞって言った。
じいちゃんの言葉やね、って言って泣いた。
皆。
俺は黙って、夢を見たとき泣いたことを隠した。
悲しくて涙を流すことは弱いことだと思っていたから。
だから俺は絶対泣かないと決めていたから。
何の影響だろうと俺がそう決めたから。
でも、何の根拠もないけど、
泣くことが出来るのも強さだと、思った。
ただ、そう思った。
追記
じいちゃんが死んでから1年以上経って2年経とうとした夏休みのこと。
大学に入ってから初めての夏休み。
その夏休みも終わりが近づき、そろそろ東京に戻ろうと考えていたある日。
親父が腕時計をくれた。
「コレはな、お父さんが就職した時にばあちゃんが買ってくれた時計なんよ」
そういって古い型の時計を渡す。
親父の腕には別の腕時計が巻かれていた。
「それでコレはじいちゃんの時計。今日からお父さんが付ける」
じいちゃんは毎日その時計を付けていたらしい。
だから親父も毎日その付けるのだと。
「それで今度はお前にお父さんがこの時計を渡す番が回ってくる」
それはいつの話になるのだろうか。
ずっと先のことになるだろう。
例え高い時計でも、伝統にするほど価値のあるものではない。
正直型も古くなって、ボロくなっているだろう。
だから、だけど言ってやった。
「ん、絶対くれよ」
ホントいつになるか分からない話だ。
でも、いつかは回ってくるのだ。
ならそれまで、待っておいてやろう。
小説、というよりは完全に実話な話。
いつかは使おうとした表現とかの関係でメモ程度にニョロっと書きました。
暗くならないようにするのは無理な話題ですねこれ。
仕方ないんでしょうけどw
今回は全くフィクションなしですので何とも言えないです。
じいちゃんが死んでるってことは別に珍しいことでもないでしょうに。
ただ表現を変えたり後から多少なりとも脚色を加えることで作品とすることもできたでしょう。
でも今回は全くしませんでした。
ただ現実を感じたままに。
意見云々があるかも知れませんが、これについてはArc_gの人格を形成している一要因ということなので突っ込み等はなしで^^
感想とかなら大歓迎なんですけどねww
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