いずみ








 赤い。
 視界が赤い。
 いや、本当に赤いのだろうか?
 本当に意識があるのだろうか?
 脳裏に直接叩きつけられるイメージ。
 思考そのものが赤く染まって、思うように身体が動かせない。
 何が何なのか全く分からない。
 だから本当に自分の意識があるかなんて分からない。
 いや、そう思えるだけで既に存在しているのだろうか?
 足は勝手に前に進み、いつのまにここまで来たのか、校舎の裏、昼休みの今なら誰もいない場所。
 もたれかかるようにして、校舎に身体を預け――気持ち悪い。
 真っ赤だ。
 世界にその色しか無くなったように、その光の色の光しか波長しか存在していないかのように、ワインをばら撒いたように……
 ――何を言っている、そんな色じゃない。
 血だ。
 真っ赤な血の色。
 まるで先ほどまで生きていた人間を引き裂いたかのような色。まだ暖かい臓腑のような色。千切れた四肢から垂れ流される液体の色。
 ――ほら、動いてる心臓を握りつぶした手のひらと同じ色――
 殴った、校舎の壁を思いっきり。
 何を考えている。
 理解できない不可解な文字列と、連想される強烈なイメージ。
 それがどうしようもないほど吐き気を催して気持ち悪い。
 真っ赤だ。
 視界だけじゃない。心も赤く染められる。
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 気持ち悪い。
 何もかもがごちゃ混ぜになって、理解できなくなって、苦しい、感じられなくなって、熱くなって、ぐにゃぐにゃだ。ふわふわしてる。
「かはっ」
 声が漏れた気がする。気のせいかもしれない。
 冷たい。
 焼けた喉が裂けて、噴き出した血が氷柱になる。
 まるで燃え盛る体の中に、凍った刃を納めているような感覚。
 なのに覚醒しない。はっきりしない。
 気持ち悪い。
 靄のかかった思考が気味悪い。
 何なんだ。一体何を考えているんだ。
 分からない。
 殴った。
 痛くない。
 気持ち悪い。気持ち悪い。
 こんなにも気持ち悪いのは何故?こんなにも苦しいのは何故?こんなにも■■■■■のはなぜ?
 いい加減にしろ。
 世界が回ってる。
 気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル気持ち悪いグルグル
 煮えたぎる釜の中に干からびた左手を入れて――体の中にいるソレを覗き込む・・・・・・・・・・・・
 錆びた血液がまわる循環する音が聞こえる。
 歯車の噛み合う音にも似た心音が聞こえる。
 腐り、爛れた皮膚をドロドロに溶けた左手で剥がす。生温かくて、冷たくて熱い、ぬるぬるとした臓腑の触覚が外側と、内側から伝わってくる。
 胸元から突き入れた腕は確かに鼓動する心臓を避けて腸に絡みつき、引き裂きながら奥へと進む。一つ一つ手探りで掻き分け握りつぶし、ソレへと辿り着く。
 ざらりとした異常な肌触りと金属のような硬い塊。肉壁を突き破って伸びる棘。掴んだ腕が穿たれ、引き上げようとすると腹が裂けた。
 強引に引くと肉が伸ばされる感覚に続いてゴムが切れたような音が全身を駆け巡る。撓み千切れた腸が裂けた腹から落ちた。
 引きずり上げるときに、喉にできた氷柱で腕が切れ、ソレの大きさに穴が広がる。
 折れた氷柱が肺に穴を開ける。勢いは止まらず、胸を突き破って外に出た。
 どろどろの左腕を掲げると、ソレが静かに脈打った。
 心臓とは違う鼓動をする臓器。男には存在しない臓器・・・・・・・・・・
 弱弱しく鼓動する、だが命を感じさせるはずのモノ。
 それが――何故こうもまで冷たいのか……
 紅とピンクと赤紫、そして銀でできたモノが金属をすり合わせたような音を立てる。
 脈打つ度に頭蓋が割れるような衝撃。
 流れ出た血液と溶けた左腕が交じり合って海ができた。
 手首から先が崩れて海に沈む。
 肩が、腰が、首が崩れて海に沈む。
 暗い奈落の底へと沈む。飲み込まれる。
 全てが腐海に堕ちる。暗い底へ引きすられる。
 ただ、不気味な光沢を放つ異形を除いて。
 全てが……沈む――









 いきなり何かが砕ける音がして叩き起こされた。
「……っ」
 何事かと思って飛び起きたのはよかったが、鋭い頭痛に邪魔される。
「あらあら大変……あら?星花ちゃん起きたの〜?」
 間延びした声と共に、掛けてあったカーテンを開いて白衣の女が入ってきた。

 その姿を見れば、ここがどこかぐらいはすぐにわかる。保健室だ。
 大方気を失っているのを見つけられてここまで運ばれたのだろう。……ていうかそれ以外ありえない。
「でも気が付いてよかったわ〜もう目が覚めないんじゃないかと心配してたのよ〜」
「いや、それはまずないと思います」
「そ〜お?でも星花ちゃん顔に落書きしても起きなかったし……」
「え、嘘!?」
 慌てて顔に手をやるが、わかるはずもない。
「うふふー嘘よ嘘。可愛い教え子にそんなことするわけないじゃない」
「…………別に小坂先生には何も習ってませんけど」
「釣れないわねぇ、星花ちゃん。それにイズミちゃんって呼んでって言ってるのに〜」
 生徒全員を『ちゃん』付けで呼び、生徒からは『ちゃん』付けで呼ばせようとする保険室職員の小坂いずみ27歳。特徴は何と言っても胸。ひたすらデカイ、とにかくデカイ。ウェーブのかかった長い髪も特徴ではあるがインパクトでは胸に負けている。ていうか何cmあるんだ?
「それにしても真崎ちゃんって可愛い寝顔なのね〜先生食べたくなっちゃった」
「ダメです」
 可愛い寝顔、ね。夢見は悪かったけど……いや、忘れた方がいい。
「それでこさ……イズミちゃん、さっきの音は?」
 いちいち指摘を食らうのもメンドクサイので素直に従ってイズミちゃんと呼んでおく。
「え?あ、そうそう実はね〜」
 顔にわかりやすく「困ったわ」と書いた表情で、小坂先生はしなを作る……て意味ないじゃん。こんなところで女の私相手にしなを作ってどうするよ。
「ガラス戸が割れちゃったのよ〜」
「……は?」
 ガラス戸?
「ほら薬品とか入れる棚とかの〜」
「それぐらいわかりますけど……なんでまたそんな微妙なところが?」
「ちょっと考え事しててね〜それでつい」
「それでついって」
 考え事してたらガラス戸を割るんですか貴女は?一体どこのエスパーなのよ。
「え〜でも歯磨きしてるときとか考え事してるときって〜歩き回ったりしない?」
「しません」
 少なくとも私はしない。……多分。
「そ〜お?まあいいわ〜星花ちゃんがどうだろうと関係ないし〜」
「そうですか」
 やけに冷たい言い方だなオイ。
「そろそろ片付けないとな〜」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……なんで笑顔で私を見てるんですか?」
「え〜だって〜」
 何故か頬を紅く染めて恥ずかしそうにモジモジする。
「星花ちゃん手伝ってくれないの〜?」
「…………」
 なぜ?
 なぜに私が手伝わなきゃいけないんですか?
「メンドクサイデス」
「え〜星花ちゃんのいけず〜」
 風船みたいに頬を膨らませて、歳の割りに幼い表情を見せる。
 あんまり自分の年齢とか気にしてないんだろーなー。
「はいはい、手伝いますよ」
 ま、本気で断ろうとは思ってはいない。とりあえず本音を言わせてもらっただけだ。
「じゃあ、まずはチリトリとホウキで集めて〜」
「掃除機ですね」
 基本的な作業だ。よほどのヘマでもしない限り怪我をすることもないだろう。
 部屋の隅に設置されているロッカーから塵取りと箒を引っ張り出す。
「ん?」
 その時になって初めて両手に包帯が巻かれていることに気付いた。意識してみると額にも包帯が巻いてある。
「どーしたの?」
「あ、いや、包帯が巻いてあるなって」
「ああ、それはね〜……とりあえず巻いておいたの」
 …………なにゆえ?
「あ、でも一応怪我はしてるのよ?」
「言葉がおかしいですよ」
 なぜかオロオロしたり真っ赤になってそわそわしてる小坂先生を尻目に砕けたガラスを箒で集め、塵取りに乗せる。
 手伝うっていうか一人で作業してるじゃん私。
「イズミちゃん掃除機……てなんで私に渡してんですか?」
「だって〜後は一人でもできるでしょ〜?」
 塵取りを受け取るとゴミ箱に捨てる。
「……そのまま捨てちゃだめなんじゃ――」
「大丈夫〜ガラス用だから〜」
 相変わらず間延びした声で、いいインターセプトでさらっと『ガラス用のゴミ箱』があることを口にする。そんなにいつもいつもガラスを割るのだろうか?
「それにしても星花ちゃんが手伝ってくれてよかったわ〜先生一人だと怪我するかもしれないでしょ〜」
「一応私はその怪我人なんですけど」
「大丈夫よ〜そんなこと気にしなくても。大したことなさそうだし〜」
「…………」
 どうやら頭と両手に包帯を巻く怪我は大したことではないらしい。
「あ、そうそう星花ちゃんになにがあったか知らないけど〜一応言い訳はしておいたから〜」
「そうですか」
 一体どんな言い訳をしたのかが気になるが、訊かない方がいいような気がする。うん、訊かない方がいい。
「乙女の大ピンチってわけでもなさそうだし〜今日のところは問題ないんじゃないかな〜」
「はぁ……」
 またよくわからない単語を……でも気にしたらキリがない。だから無視。
「それと――ここまで運んできてくれた子にお礼言わなきゃダメよ〜」
「運んできた子って、小……イズミちゃんじゃないんですか?」
「うん。えっとね〜ちょっと待って、確か名前は〜」
 小坂先生は机の上に置いてあったメモ用紙を手に取ると、そこに書いてあった名前を読み上げる。
「えっと〜スメラギ ヤヅキ君」

 一瞬、全身が凍りつくのが分かった。

 スメラギ……?

 自分の心音がやけに遠く、大きく響く。

「変わった漢字でね〜間違って『こう よるつき』って読んじゃった」
 こう よるつき

 間違いない――皇だ。
 皇 夜月
 確かに変わった漢字、名前だがそんなことは問題じゃない。
 全身の血が錆びていくのを感じながら、その名を脳裏に叩きつける。
 ――皇
 いないとは言いきれないが、その数は少ない苗字だ。
 絶対に関係ないとは言い切れないが・・・・・・・・・・・・・・・・可能性は低いだろう・・・・・・・・・
「星花ちゃんどうかしたの?」
 早鐘を打つ心臓が煩わしい。
 まるで思考を妨げようとしているかのように感じる。
「星花ちゃん。ねえ聞こえてるの?」
 いや、ダメだ。考えない方がいい。
 現にそこに皇 夜月という名の人間が存在しているのだ。受け入れろ。
「大丈夫、聞こえてます……」
 自分でも明らかに大丈夫ではないとわかるぐらいに力のない声で、私は応えた。
「大丈夫って、顔青いよ?」
「大丈夫です」
 体調に問題があるわけじゃないのだから心配はいらないはずだ。多分。
「そ〜お?なら良いけど。一応病院とか行った方がいいと思うから〜」
「病院……ですか」
「うん、あれだったら救急車呼ぶ?」
「いや、それは……」
 流石に嫌だ。嫌過ぎる。
「どのみち病院には用事がありますから、自分で行きます」
「そうなの〜?」
 小坂先生の言葉に適当に相槌を打ってから、考え直す。
 皇 夜月
 珍しい名前だがとにかくいるのだ。それだけ。それ以上のことなどありはしない。
 そう思うことにして、とにかく切り替える。
「なら今日はもう帰ってもいいから〜早めに病院に行ってね〜」
「そうします」
 失礼しました、と決まりきった挨拶をして保健室を出る。
 まだ授業中なのか、校舎は人の気配こそするものの静まっている。
「まだまだだなぁ」
 同じ名前というだけで、それほど動揺することもあるまいに。情けない。
 でも――
「皇 夜月……か」
皇という姓は珍しい。
 探したってそうはいないだろう。
 でも、いるのだ。
 関係などないはずだと自分に言い聞かせても、期待せずにはいられなくなる。
 鏡の前に立って両手と頭に巻かれた包帯を取り、傷が既に塞がっていることを確認する・・・・・・・・・・・・・・・・と、教室へと向かう。
 荷物を取りに行くためだ。
「ほんと、情けない」
 3階へと上る階段の途中、窓の外に見える空を見上げて、一人呟いた。







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